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兵庫の幕末 大倉山公園・伊藤博文銅像跡


神戸市中央区の大倉山公園にある伊藤博文の銅像跡です。

伊藤は初代兵庫県知事だったこともあり、はじめはこの大倉山公園から南に下った湊川神社の本殿横に銅像がありましたが、日露戦争の講和条約の内容に納得しなかった市民が銅像を引き倒し、海に捨てようとしたところを警察が確保しました。

その後、伊藤が暗殺された後、伊藤と交流のあった大倉喜八郎が、自分の別荘地に台座を作り、伊藤の銅像を再建しました。そしてこの別荘と土地を市民のために使うという条件で、神戸市に寄付しました。これが大倉山公園の由来です。この大倉喜八郎は、大倉財閥を作った人で、鹿鳴館や帝国ホテルを作った一人でもありました。

第二次世界大戦の際、銅像は金属提出され、現在は台座だけが残っています。

大倉喜八郎の希望通り、現在大倉山公園は、市民の憩いの場として親しまれています。敷地内には神戸市立中央図書館もありますので、幕末に関する書籍を読み、公園を散策するというのも一興ではないでしょうか。


【大倉山公園】
兵庫県神戸市中央区楠町7丁目4
Google地図はこちら


# by shinta-30 | 2009-04-16 23:31 | 幕末一般 

雑誌”サライ”に「幕末・歴史探訪」と。。


2009.3.19発行分なので、少し前になりますが、雑誌「サライ」で「幕末・歴史探訪、英傑縁の地を巡る」と題して、幕末の志士が京の桜とともに紹介されていました。西郷隆盛、坂本龍馬、小松帯刀、松平容保、岩倉具視、桂小五郎、中岡慎太郎です。それぞれの縁の地は、分かりやすいというか、ベタというか。。。

西郷は清水寺、岩倉具視は実相院、坂本龍馬は嵐山、松平容保は金戒光明寺などです。中岡慎太郎は霊山でした。「ここに何度も訪れた慎太郎は、この景色を眺めながら、倒幕後の日本への思いを新たにしていたであろうか。」などとありました。さすがの慎太郎も、そのときはまさか自分がここに眠ることになろうとは思わなかったでしょう。



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# by shinta-30 | 2009-04-14 22:25 | 中岡慎太郎 

歴史の表舞台に立つ人、影の人

このブログでも時々書いていますが、歴史は決して一人、あるいは限られた人だけで作られているものではないのですが、時としてそのような理解をされることがあります。例えば明治維新において、維新の三傑と呼ばれる、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允がいます。彼らの功績は間違いなく第一級で、彼らがいなければ私たちが知っている明治維新とは違った歴史を歩んでいたかもしれません。

だからといって彼ら三人が明治維新を成し遂げたというものではありません。当然のことながら、多くの人たちの関わりの中で、維新が完成していったわけです。様々な人が関わり、またその思惑が交錯して進行していきます。

学校の歴史の授業では、時間的な制約からでしょうか、端的に起こった事項を捉えようとします。しかしこのような理解が実際の歴史と違った思い込みを作ってしまうことが、多々あるのです。歴史小説や大河ドラマもその傾向にあります。

例えば、先に出た西郷隆盛は西南戦争では反政府を旗印に決起したと理解されていますが、仕方なく戦った要素が強いといえるでしょう。また「いわゆる征韓論」では、西郷が朝鮮出兵を希望していたと言われることもありますが、むしろ出兵を希望していたのは、板垣退助です。


このように明治維新の第一級の人においても誤解されてしまうように、なかなか「本当のところ」が語られないままとなることが多くあります。

西郷のように歴史の表舞台に立つ人でもそうですから、表に出ていない人はましてやといったところです。
以前にも書きましたが、山岡鉄舟は江戸城無血開城の真の立役者といってもよいほどの活躍をしていますが、歴史の中では勝海舟と西郷隆盛の話し合いで決まったと理解されています(間違いではありませんが)。


歴史には表舞台に立つ人と影の人がいます。勝海舟は表舞台の人で山岡鉄舟は影の人でしょう。
その人の向き、不向きもあれば、置かれた立場によって表舞台にでることもあるでしょう。表舞台に出る人と影の人で分ければ、後者のほうが圧倒的に多いわけです。歴史は名もなきたくさんの人たちが作り上げているといっても過言ではないと思います。もしこのブログにお越しいただいた方で、(幕末に限らず)歴史に興味を持たれた方は、ぜひその「本当のところ」を感じて、影の人たちの存在や活躍を知っていただけたら歴史はもっと面白くなるのではないかと思います。


随分昔の話ですが、栄養補助食品のラジオCMでこういう話がありました。

「ある人が輝いているとき、その人は影の力に支えられている。昔の人は、その影に『様』をつけて心の中で頭を下げた。だから『お陰様』は『ありがとう』と同じ意味で使われる。必要なものは地味に見える。」

たくさんの地味な人たちに支えられて、歴史は動いていきます。


# by shinta-30 | 2009-04-06 23:12 | 歴史一般 

昔の人は手を振って歩かなかった~ナンバ歩行・その2~

前回、ナンバ歩行についてご紹介しました

今回は、なぜ日本人がナンバ歩行をしていたのか。例を挙げながら考えていきましょう。

・武士の歩き方:右利きの場合、左に刀を差しています。その状態で反対の腕と足を前に出せばどうなるでしょう。刀が(特に腰から後ろの部分が)左右に動いて動いて、狭い路地などでは、柱などにガチャガチャ当たって、とても歩けません。またドラマなどで、武士が急いで走っている場面がありますが、腰を落とし、刀の柄に手をあて、腕を振らずに膝を少し曲げて走っているのを見たことがあると思います。彼らが今の走り方をしたら集団で走れません。刀が隣の人の脇腹にヒットするので。。


・番頭さんや丁稚の歩き方:ドラマでこんな歩き方をみたことはないでしょうか。番頭さんはたいがい前掛けをしています。お店にお客さんが来たとします。番頭さんは奥で帳簿をつけていましたが、お客さんに気づき、立ち上がり、「いらっしゃいまし」と言いながら出てきます。その時番頭さんは前掛けを両手で押さえ、膝を少し曲げすり足状態で出てきます。
次に丁稚の場合。お使いを頼まれた丁稚は風呂敷包みを持って店を出ます。風呂敷包みは胸の前でしっかりと持っています。そしてやや膝を曲げ、すり足で歩いていきます。
このように商人は特に腕を振って歩くことはありません。偉そうに見られては困るからです。商人に限らず現代でもそのような光景はあると思います。例えば応接室にお客さんを案内するときなど。。。


・飛脚の走り方:飛脚がロゴの某宅配会社。今度じっくり飛脚の絵を見てください。左腕と左足が前に出ています。飛脚は文箱というものを肩にかけています。体が揺れると文箱が動いて都合が悪いのです。


歩き方だけでなく、動作においても同じ側の足と腕が出るということがあります。

例えば鍬で畑を耕す時、右で鍬を振り下ろすとすると、右足が前に出ています。餅をつくときも同じです。さらに武士が刀で斬るときも同じです。右利きの武士が刀で斬り下げるときには右足が前にでています。

このように日本人にとってナンバ(歩行)は縄文弥生時代から江戸時代にいたるまで、効率的な体の使い方であったといえます。

何でも中岡慎太郎に関連付けて考えるのは悪い癖ですが。。。
一般的な近江屋事件の解釈で考えてみます。中岡慎太郎が坂本龍馬とともに襲撃された時、まず後頭部を斬られています。

右利きの暗殺者が襖を開けると同時に刀に手をかける。右足を出し部屋に踏み込みながら刀を抜き、抜きざまに向かって左に座っていた中岡の後頭部を左から右へ斬りつける。この後頭部の傷は最終的に致命傷になります。左足を出しながら、右手で抜きざまに斬りつける、というのはまず不可能です。余談ですが、上から斬り下げたとは考えにくいです。近江屋に限らず、当時、家屋の天井は低く、屋内では刀を低く使うのがセオリーです。そして居合いのように一気に仕留める必要があります。やはり居合いの達人、桂準之助が斬り込んだか?うーむ。。話が逸れてきました。

閑話休題

このようにナンバ歩行は、日本人独特の文化とともに日本人の歩き方として培われてきたのです。少なくとも長い距離を歩くときは無駄な動き(体軸内回旋)がない分、ナンバ歩行のほうが疲れにくいです。中岡慎太郎が長州と京を何度も往復するなどあちらこちらを歩き通したのは、彼の強靭な意思と脚力も大きな要因でしょうが、それとともにナンバ歩行をしていたからだ、ともいえるのです。

ちなみになぜナンバと呼ばれたのかは諸説あり、いまだはっきりしません。

ナンバ以外に、日本人の特徴として、歩く時はかかとをつけずに歩く、手を腰にあてて前後に振るような走り方はしていなかったという面白い事実もありますが、そのあたりは次の機会に。
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# by shinta-30 | 2009-03-12 23:36 | 歴史一般 

岩倉具視宛て書簡が大量に発見されたというニュース

詳細はこちらでご覧ください。

1868年から83年までに岩倉具視が東京で受け取った書簡ということです。その数約1700点にのぼります。
広島県の「海の見える杜美術館」で所蔵されていたものだそうで、1700の内、約8割が新史料となるようです。今後、明治初期の詳細がより鮮明になることが期待できますね。

岩倉具視は実は、中岡慎太郎についで好きな人物なのです。岩倉具視をご存知ですか。そうです、500円札の肖像画の人です。認知度が微妙な人です。「あーあー、そういう人いたねえ。何をしたかは知らないけど。」の代表選手です。しかし行ったこと、存在感は幕末・明治の時代で一級の人です。つまり大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛に並ぶ実力者です。公武合体を推進して討幕派志士から命を狙われ、岩倉村に隠居したかと思うと、討幕側に寝返って、薩長と手を組み討幕を仕上げていきます。貧しい公家の出身でありながら最終的には明治政府の重要ポストまで上り詰めた人物です。幕末当時政治の発言力を失っていた公家たちの中にあって、朝廷主導の政治を夢見て、それを実現した人でした。

また「いわゆる征韓論」では朝鮮に使者として自分を行かせて欲しいといった西郷と対立します。閣議の最高責任者であった、太政大臣三条実美が病気のため欠席した後は、太政大臣代理となり、西郷の意見を退けます。これによって西郷は参議を降り、鹿児島に帰った後、西南戦争という歴史をたどります。

そして日本人ではじめてガンの告知を受けた人といわれています。憲法を学びにドイツに行っている伊藤博文が帰国するのを今か今かと待ちながら、間に合いませんでした。憲法の創設は、岩倉具視にとって命のあるうちにし遂げたい最後の仕事だったことでしょう。

ちなみに中岡慎太郎が暗殺されたとき、「誰が余の片腕を奪い去ったのか」と泣いたほど中岡慎太郎と岩倉具視は強力な信頼関係がありました。今回の書簡は残念ながら時期的に考えて中岡慎太郎のものはないと思われます。

ご参考までに、岩倉村の訪問記をリンクしておきますので、興味のある方はお越しください。


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# by shinta-30 | 2009-03-11 00:51 | 幕末一般 

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