ANA国内線【PR】

カテゴリ:歴史一般

  • 大阪城(続き)
    [ 2009-08-02 13:45 ]
  • 大阪城
    [ 2009-07-28 23:35 ]
  • 真田幸村終焉の地 安居神社
    [ 2009-07-22 21:57 ]
  • 歴史の表舞台に立つ人、影の人
    [ 2009-04-06 23:12 ]
  • 昔の人は手を振って歩かなかった~ナンバ歩行・その2~
    [ 2009-03-12 23:36 ]
  • 昔の人は手を振って歩かなかった ~ナンバ歩行・その1~
    [ 2009-03-09 22:13 ]
  • 薩長同盟=坂本龍馬?
    [ 2008-08-10 22:33 ]
  • TBS開局30周年記念ドラマ「関が原」
    [ 2007-09-19 01:18 ]

 

大阪城(続き)

大阪城ネタの続きです。
ガチャガチャの写真はこれです。
でた!坂本龍馬ピンズ(通称ピンバッジ)!
幕末の商品ならとりあえず坂本龍馬と書いておけば、当たるだろうという安易なネーミング^^
それに加えて、大阪城で坂本龍馬のピンズが地域限定とは意味不明。。。

まあそれはさておき、坂本龍馬の関係者が参加させてもらっている様子。木戸、西郷、そして中岡。

この中岡さん、実際の写真より少し女性的に描かれていますね。女優の岡田奈々さんに似てますよ。

出た!同志!薩長同盟に共に奔走したという意味で、同志でしょうか。
薩長同盟以外のことで同志という部分がそれほどないんですが。。。
それだけでなく、突っ込みどころ満載のこのガチャガチャ。
3つそろえて薩長同盟締結??ん??えーかげんにしなさい!^^

と愚痴をいっても仕方ないので、200円投入。2回トライしましたが、「中岡さん、今回はあきらめます」。
「同志とかいうバッジならいらないし。。。」などと負け惜しみを言いながら大阪城を後にしたのでした。

で、戦利品はこれです↓
まあ、桂小五郎好きだし、いいかと。。。

by shinta-30 | 2009-08-02 13:45 | 歴史一般 

大阪城

前回の続きです。
大阪城です。豊臣家の象徴でもあり、幕末には徳川慶喜が江戸から追われ、この城に入城していましたが、鳥羽伏見の戦いの時、ここから逃げた(?)ことでも有名です^^
その大きさは相当なもので、伊達政宗が秀吉に呼ばれてここへ来た際、あまりの大きさと煌びやかさに、「こんな城を築いた豊臣家とは戦っても勝負にならない」とまで思わせた城です。

何度も焼失し、徳川時代にも、昭和に入ってからも再築されています。
外国人観光客も多かったです。ここに限らず、案外お城は外国の方に人気ですね。

天守閣から南に向かって大阪平野が開けています。背中側(北側)は淀川が流れていて、天然の要塞となっています。大阪夏の陣でも城の南で大きな戦いが繰り広げられました。

天守閣内は資料館のようになっており、一階ごとに展示があります。写真は夏の陣の際の真田幸村隊です。


天守閣から裏手(北側)に回り、城壁の隅のほうに秀吉の側室、淀の慰霊碑がひっそりとあります。

ちなみに淀の母は、美人で有名なお市。信長の妹で浅井長政の妻。その後信長が浅井と同盟を組んでいた朝倉家を攻めたことで、浅井と信長が対立、戦いに負けた浅井長政は自害。お市はその後、柴田勝家に嫁ぐも、秀吉と勝家が対立し、敗れた勝家は自害します。お市も夫とともに自害しました。
秀吉はこのお市が好きで好きでたまらなかったのですが、お市は「あんな猿みたいな顔した人はいや」と秀吉を毛嫌いしていたようです。そのお市の娘が茶々(後の淀)、初、江与の3人です。母からは嫌われていた秀吉ですが、せめてもと(かどうか分かりませんが)、その娘の茶々を側室にしたのでした。


さて、そんなこんなで天守閣を後にし、広場を散策していると、「ガチャガチャ」を発見。200円入れてレバーを回すとカプセルが出てくるやつです。近づいて見てみると。。。おおっ!!
次回へ続く。。。
引っ張るほどのものか?^^


by shinta-30 | 2009-07-28 23:35 | 歴史一般 

真田幸村終焉の地 安居神社


大阪は天王寺逢坂にある安居神社に行ってきました(といっても今年の5月のことです)。
ここは大阪夏の陣のおり、豊臣方の武将真田幸村(幸村は通称、正式な名は信繁)の終焉の地です。
豊臣家の滅亡を謀り、徳川方が大阪城に攻め込もうとしたのが「大阪冬の陣」。その次の年の「夏の陣」です。
この夏の陣で真田幸村は徳川軍勢を迎え撃つため、大阪城を出て、今の天王寺の辺りまで南下します。先に出陣していた後藤又兵衛が真田隊の到着を待たずに、徳川軍に攻め込み、やがて敗北。後藤は闘死。真田幸村は家康の本陣まで突き進み、一説には家康を討ち取ったとも言われるほどの戦いをします。

しかし大軍勢の徳川軍の前に、撤退を余儀なくされ安居神社で休息中のところを徳川軍に見つかり、戦死しました。生存説もあるほど、勇敢な武将として後世に名を残した幸村です。

しかし残念なことに幸村はこの大阪夏の陣で指揮をとっていたわけではありませんでした。
この人が参謀なりで大阪城内で指揮をとっていれば、徳川方も苦戦を強いられたことでしょう。この辺りが豊臣家の計画性のなさ、でもあります。

大阪城内にいた秀吉の側室淀と息子の秀頼は徳川方に城を包囲され、炎上する大阪城内で自刃します。聡明な幸村は、この戦は徳川方が勝つことを予測していたかも知れません。

どうでもいい話ですが、秀頼は大阪城から出たことがないくらい、過保護に育てられており、この戦のときも「自分も出陣する」といって馬にまたがったところ、あまりにも太っていたので、馬がひざをガックリとついて、秀頼の足は地面についてしまったとかなんとか。。。。馬が「勘弁してください」といったかどうか?^^

それにしても関が原の戦いが1600年、大阪夏の陣が1615年。この夏の陣の後、豊臣家は崩壊するわけですが、この間15年。徳川家康の長期計画には恐れ入ります。


さて、この後大阪城にも足を運びましたが、続きは次回に。。


by shinta-30 | 2009-07-22 21:57 | 歴史一般 

歴史の表舞台に立つ人、影の人

このブログでも時々書いていますが、歴史は決して一人、あるいは限られた人だけで作られているものではないのですが、時としてそのような理解をされることがあります。例えば明治維新において、維新の三傑と呼ばれる、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允がいます。彼らの功績は間違いなく第一級で、彼らがいなければ私たちが知っている明治維新とは違った歴史を歩んでいたかもしれません。

だからといって彼ら三人が明治維新を成し遂げたというものではありません。当然のことながら、多くの人たちの関わりの中で、維新が完成していったわけです。様々な人が関わり、またその思惑が交錯して進行していきます。

学校の歴史の授業では、時間的な制約からでしょうか、端的に起こった事項を捉えようとします。しかしこのような理解が実際の歴史と違った思い込みを作ってしまうことが、多々あるのです。歴史小説や大河ドラマもその傾向にあります。

例えば、先に出た西郷隆盛は西南戦争では反政府を旗印に決起したと理解されていますが、仕方なく戦った要素が強いといえるでしょう。また「いわゆる征韓論」では、西郷が朝鮮出兵を希望していたと言われることもありますが、むしろ出兵を希望していたのは、板垣退助です。


このように明治維新の第一級の人においても誤解されてしまうように、なかなか「本当のところ」が語られないままとなることが多くあります。

西郷のように歴史の表舞台に立つ人でもそうですから、表に出ていない人はましてやといったところです。
以前にも書きましたが、山岡鉄舟は江戸城無血開城の真の立役者といってもよいほどの活躍をしていますが、歴史の中では勝海舟と西郷隆盛の話し合いで決まったと理解されています(間違いではありませんが)。


歴史には表舞台に立つ人と影の人がいます。勝海舟は表舞台の人で山岡鉄舟は影の人でしょう。
その人の向き、不向きもあれば、置かれた立場によって表舞台にでることもあるでしょう。表舞台に出る人と影の人で分ければ、後者のほうが圧倒的に多いわけです。歴史は名もなきたくさんの人たちが作り上げているといっても過言ではないと思います。もしこのブログにお越しいただいた方で、(幕末に限らず)歴史に興味を持たれた方は、ぜひその「本当のところ」を感じて、影の人たちの存在や活躍を知っていただけたら歴史はもっと面白くなるのではないかと思います。


随分昔の話ですが、栄養補助食品のラジオCMでこういう話がありました。

「ある人が輝いているとき、その人は影の力に支えられている。昔の人は、その影に『様』をつけて心の中で頭を下げた。だから『お陰様』は『ありがとう』と同じ意味で使われる。必要なものは地味に見える。」

たくさんの地味な人たちに支えられて、歴史は動いていきます。


by shinta-30 | 2009-04-06 23:12 | 歴史一般 

昔の人は手を振って歩かなかった~ナンバ歩行・その2~

前回、ナンバ歩行についてご紹介しました

今回は、なぜ日本人がナンバ歩行をしていたのか。例を挙げながら考えていきましょう。

・武士の歩き方:右利きの場合、左に刀を差しています。その状態で反対の腕と足を前に出せばどうなるでしょう。刀が(特に腰から後ろの部分が)左右に動いて動いて、狭い路地などでは、柱などにガチャガチャ当たって、とても歩けません。またドラマなどで、武士が急いで走っている場面がありますが、腰を落とし、刀の柄に手をあて、腕を振らずに膝を少し曲げて走っているのを見たことがあると思います。彼らが今の走り方をしたら集団で走れません。刀が隣の人の脇腹にヒットするので。。


・番頭さんや丁稚の歩き方:ドラマでこんな歩き方をみたことはないでしょうか。番頭さんはたいがい前掛けをしています。お店にお客さんが来たとします。番頭さんは奥で帳簿をつけていましたが、お客さんに気づき、立ち上がり、「いらっしゃいまし」と言いながら出てきます。その時番頭さんは前掛けを両手で押さえ、膝を少し曲げすり足状態で出てきます。
次に丁稚の場合。お使いを頼まれた丁稚は風呂敷包みを持って店を出ます。風呂敷包みは胸の前でしっかりと持っています。そしてやや膝を曲げ、すり足で歩いていきます。
このように商人は特に腕を振って歩くことはありません。偉そうに見られては困るからです。商人に限らず現代でもそのような光景はあると思います。例えば応接室にお客さんを案内するときなど。。。


・飛脚の走り方:飛脚がロゴの某宅配会社。今度じっくり飛脚の絵を見てください。左腕と左足が前に出ています。飛脚は文箱というものを肩にかけています。体が揺れると文箱が動いて都合が悪いのです。


歩き方だけでなく、動作においても同じ側の足と腕が出るということがあります。

例えば鍬で畑を耕す時、右で鍬を振り下ろすとすると、右足が前に出ています。餅をつくときも同じです。さらに武士が刀で斬るときも同じです。右利きの武士が刀で斬り下げるときには右足が前にでています。

このように日本人にとってナンバ(歩行)は縄文弥生時代から江戸時代にいたるまで、効率的な体の使い方であったといえます。

何でも中岡慎太郎に関連付けて考えるのは悪い癖ですが。。。
一般的な近江屋事件の解釈で考えてみます。中岡慎太郎が坂本龍馬とともに襲撃された時、まず後頭部を斬られています。

右利きの暗殺者が襖を開けると同時に刀に手をかける。右足を出し部屋に踏み込みながら刀を抜き、抜きざまに向かって左に座っていた中岡の後頭部を左から右へ斬りつける。この後頭部の傷は最終的に致命傷になります。左足を出しながら、右手で抜きざまに斬りつける、というのはまず不可能です。余談ですが、上から斬り下げたとは考えにくいです。近江屋に限らず、当時、家屋の天井は低く、屋内では刀を低く使うのがセオリーです。そして居合いのように一気に仕留める必要があります。やはり居合いの達人、桂準之助が斬り込んだか?うーむ。。話が逸れてきました。

閑話休題

このようにナンバ歩行は、日本人独特の文化とともに日本人の歩き方として培われてきたのです。少なくとも長い距離を歩くときは無駄な動き(体軸内回旋)がない分、ナンバ歩行のほうが疲れにくいです。中岡慎太郎が長州と京を何度も往復するなどあちらこちらを歩き通したのは、彼の強靭な意思と脚力も大きな要因でしょうが、それとともにナンバ歩行をしていたからだ、ともいえるのです。

ちなみになぜナンバと呼ばれたのかは諸説あり、いまだはっきりしません。

ナンバ以外に、日本人の特徴として、歩く時はかかとをつけずに歩く、手を腰にあてて前後に振るような走り方はしていなかったという面白い事実もありますが、そのあたりは次の機会に。
Tags:# 

by shinta-30 | 2009-03-12 23:36 | 歴史一般 

昔の人は手を振って歩かなかった ~ナンバ歩行・その1~

更新、滞っておりました。

さて、いきなりですが、ナンバ歩行(歩き)という言葉を聞いたことはありますか?大阪の地名にナンバというのがありますが、それは難波であって、難波を歩いたから、難波(ナンバ)歩行ということではありません。当然のことながら。。。
某陸上選手がナンバ走りをして、知名度があがったようにも思いますが。

簡単に説明しますとナンバ歩行とは、腕を振らない(腰を捻らない)歩き方です。正確にはわずかに腕を振ります。右足を出したときにわずかに右腕が前にでます。左足を出したときには左腕を振ります。あくまでわずかに、です。意図的に腕を振るのではなく、足の動きと体幹(胴体)の動きにつられて動くといった感じです。

実は日本人はもともとこのナンバ歩行で歩いていました。少なくとも幕末、明治維新のころまでは。それがなぜ、今のような「右足を出したときに左腕を前に振る」ようになったのか。これは明治になってから、いわゆる外国の軍隊方式の歩き方を輸入したからだと言われています。「しっかり足を上げて、腕を振って!」と小学校時代に行進の練習で言われませんでしたか?この歩き方のほうが統一感があり綺麗に見えるのです。明治時代の富国強兵に基づいて導入されました。しかし文化的に考えると、この歩き方はやはり日本人に合っていないのです。

日常の中でもナンバ歩行が出てくる場面があります。例えば寒さで凍った道を歩く時、着物を着ている時、ズボンのポケットに手を入れて歩く時、リュックを背負っている時、いずれも体を捻ったり腕を振ったりして歩きません。それでも普通に歩けます。

つまり歩くことにおいては体の捻れ(体軸内回旋)や腕の振りはいらないのです。
しかし明治以降の教育の過程において、「しっかり足を上げ、腕を振って歩くことが美しい歩き方」と思い込んでしまったのです。ですから緊張して同じ側の手と足が出る歩き方をしている人が笑われてしまうのですね。本当はそっちのほうが、本来の日本人なんですけど。。。。

ちなみに、ダスティンホフマン主演の映画「卒業」。その中で彼が歩くシーンはほとんどナンバ歩行です。腕をだらっと下げてとぼとぼと歩いています。意図的かどうかは分かりませんが。。。

次回以降になぜ日本人はナンバ歩行をするのか考えていきます。



Tags:# 

by shinta-30 | 2009-03-09 22:13 | 歴史一般 

薩長同盟=坂本龍馬?

最近は歴史ものの番組が多くなってきたようです。
あるテレビ番組で「坂本龍馬は明智光秀の子孫だった?」ということを検証していました。
紋が一緒だとか、光秀が築城した「亀山(現在の亀岡市)」と龍馬の「亀山社中」が同じとか、というものだったと思います。光秀の居城の「坂本城」とも関係が?ともいうことでしたっけ?(ちょっと前の話なので詳細は忘れました。すみません)

紋が一緒なんてよくあった話ですし、龍馬の亀山社中ものちに地名の「亀山」がついたわけで、当時は「社中」と言っていましたし、という具合でこじつけが気になります。光秀は南光坊天海になったという説もあるくらいなので、こういう話が出てくるのも不思議ではないのですが。。。

その辺りはいいとして、ちょっと愕然としたのが、「光秀は島津家、毛利家と懇意であったので、坂本龍馬は薩長同盟を成し遂げられたのだ」という説明。まあ、こじつけにもほどがあります。
これは大前提として、龍馬=薩長同盟の立役者という構図があるからこその理論です。もうムチャクチャです。

もちろん龍馬が薩長同盟に関係していたことは事実ですが、島津家と毛利家、つまり薩摩と長州とを口説き落としたというものではありません(しとげた、という意味では最後の薩摩藩邸での話は有名ですが)。

もともと薩長同盟を言い出したのは、月形洗蔵や土方楠左衛門であり、周旋に奔走したのは言うまでもないですし。。。

ちょっと愚痴になってしまいました。。。すみませんです。龍馬が嫌いなわけではないのですが、ここまで虚像が肥大化し、現実から逸脱してしまったのには閉口します。

坂本龍馬は織田信長と並んで選ばれる「好きな歴史上の偉人」ですので、視聴率を考えれば龍馬ネタを出したい気持ちは分かりますが。。。。

勝海舟が言った「薩長同盟は龍馬が一人でやってのけたのさ」というのと同じような話になってしまってます。


by shinta-30 | 2008-08-10 22:33 | 歴史一般 

TBS開局30周年記念ドラマ「関が原」


 TBS開局30周年記念ドラマ、「関が原」を職場の先輩から借りました。幕末を理解する上で押さえておかなければならない?のが、関が原の合戦です。実はこのビデオは以前も先輩からお借りしたのですが、今回もう一度見たいと無理言って借りました。

 この「関が原」は1980年の制作で、石田三成に加藤剛、徳川家康に森繁久彌、本田忠勝に三國連太郎、島左近に三船敏郎という超豪華キャストです。ちなみに収録時間は6時間。ものすごいスケールです。当時は視聴率が伸びなかったようですが、後に「伝説の時代劇」といわれるようになったそうです。このドラマでは石田三成を「忠義の家臣」として描いており、三成の悪評を払拭するものとなっています。ちなみに先輩は自他共に認める「石田三成マニア」で、関が原のみならず、戦国時代については博物館的存在です。

 閑話休題。西軍はこの合戦後ことごとく辛酸を味わってきました。長い江戸時代を経てもなお関が原での東軍(幕府)への恨みが残り、幕末の桜田門外の変をきっかけに爆発するのです。
 長州が幕府をうらむのも、土佐の郷士が脱藩していったのも、関が原が発端と言っても過言ではないと思います。薩摩に関してはちょっと違いますが。。。

 ともかくこの「関が原」から幕末につながる何か新しいものが再発見できればと思います。どうでもいい話ですが、関が原の武将の中で好きなのは大谷吉継です。

by shinta-30 | 2007-09-19 01:18 | 歴史一般