大阪は天王寺逢坂にある安居神社に行ってきました(といっても今年の5月のことです)。
ここは大阪夏の陣のおり、豊臣方の武将真田幸村(幸村は通称、正式な名は信繁)の終焉の地です。
豊臣家の滅亡を謀り、徳川方が大阪城に攻め込もうとしたのが「大阪冬の陣」。その次の年の「夏の陣」です。
この夏の陣で真田幸村は徳川軍勢を迎え撃つため、大阪城を出て、今の天王寺の辺りまで南下します。先に出陣していた後藤又兵衛が真田隊の到着を待たずに、徳川軍に攻め込み、やがて敗北。後藤は闘死。真田幸村は家康の本陣まで突き進み、一説には家康を討ち取ったとも言われるほどの戦いをします。
しかし大軍勢の徳川軍の前に、撤退を余儀なくされ安居神社で休息中のところを徳川軍に見つかり、戦死しました。生存説もあるほど、勇敢な武将として後世に名を残した幸村です。
しかし残念なことに幸村はこの大阪夏の陣で指揮をとっていたわけではありませんでした。
この人が参謀なりで大阪城内で指揮をとっていれば、徳川方も苦戦を強いられたことでしょう。この辺りが豊臣家の計画性のなさ、でもあります。
大阪城内にいた秀吉の側室淀と息子の秀頼は徳川方に城を包囲され、炎上する大阪城内で自刃します。聡明な幸村は、この戦は徳川方が勝つことを予測していたかも知れません。
どうでもいい話ですが、秀頼は大阪城から出たことがないくらい、過保護に育てられており、この戦のときも「自分も出陣する」といって馬にまたがったところ、あまりにも太っていたので、馬がひざをガックリとついて、秀頼の足は地面についてしまったとかなんとか。。。。馬が「勘弁してください」といったかどうか?^^
それにしても関が原の戦いが1600年、大阪夏の陣が1615年。この夏の陣の後、豊臣家は崩壊するわけですが、この間15年。徳川家康の長期計画には恐れ入ります。
さて、この後大阪城にも足を運びましたが、続きは次回に。。